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「お師様〜お客様です〜」
 ミレトスのはずれの小さな屋敷に、ユリの元気な声が響く。屋敷は大きくはないものの普通の庶民の家よりは大きく、一階は主に彼女の師の仕事場として使われていた。常日頃占いに指針を求める者や、副業の医者の真似事の患者などが良く訪れるため、今日の客もそのどちらか目当てだろうと思ってユリはその客を師の元へ案内した。

 彼女が師に拾われてからすでに八年の年月が経とうとしていた。
 ミレトスの自邸にユリを連れて行った師は、自分の身の回りの世話をさせつつ一つ一つ知識を与えていった。ユリにとってはほとんどが始めて聞くことで、どれもこれも興味深く、乾いた砂が水を吸い込むがごとく知識を吸収していく。師もそれをとても喜んで、持てる知識を与えつづけた。
 あの少年のバンダナは、常にユリと共にあった。何度も何度も洗濯を重ねたために元の色はかなりあせてしまい、白に近くなってしまったが。あのとき安心した、少年の香りも消えてしまったが。だがそれがユリの心の支えになっていることは八年間変らなかった。
 薬草の種類や初歩的な占いにも詳しくなったし、一般常識的な世界事情も詰まっている。
(世界はこんなに広く、色々なことがあるんだ、とあの時は感動したわねぇ…)
 ユリは来客を案内したことで中断せざるを得なくなった洗濯干しを再開しつつ、なんとなく昔を思い出していた。植物の蔦を依って作られた洗濯紐に干された大きな白いシーツの海を見ると、白い空間に放り出されたようで、何の寄る辺もなく一人取り残された時のことを思い出す。
 うーん、と伸びをして青く晴れた空を見上げる。
(んー……あの時の男の子はどうしているかなぁ…)
 だんだんと自分の思いを言葉にすることにも慣れ、今では占いの順番待ちをする人たちの雑談に呼ばれたりもする。
 それは紛れもなくあの時少年が背中を押してくれたからで。
 これが幸せ、というのかはわからないが、孤児院やあの夫婦の元にいたときに比べればずっといい生活をしている。
「ユリ! お茶しましょうよ」
 と、勝手口から呼びかけられた声に振り返る。そこには来客の相手をしているはずの師が立っていた。
「お師様、お客様は?」
「もう、お帰りになったわ。今日の午前中は休みにするから、ちょっとお茶に付き合いなさい」
 師の容貌は、不思議と出逢った頃から変らない。だが今日はその美貌に影が差しているように見える。
「お疲れですか? 薬草茶を入れましょうね〜」
 ユリは空になった洗濯籠を抱えて急いで勝手口へと走る。師匠はその姿を認めると先に屋敷へと入り、二階のテラスへと向かったようだ。どうやらお茶はそこで飲むらしい。
 ユリは手馴れたものでさっさと茶器と買い置きのお茶菓子、茶葉と湯を用意してワゴンに乗せるとテラスへと向かう。この八年で師のお茶の好みは十分に把握していた。
「どうぞ」
 湯気の立つカップを師の前に差し出し、ユリは自分も向かい側の椅子に座った。いつもならばすぐに師が口を開くのだが、今日に限っては何もいう様子がない。カップに添えたティースプーンで琥珀色の液体をぐるぐるかき混ぜているだけだ。
(……今日は何のお話もないのかしら)
 突然午前中を休みにしたのは何か自分に話があったからではないのか、と思ったが彼女がたまに気まぐれを起こすことを思い出し、今回もそれなのかな、と考える。
「…八年前」
 ユリが息を吹きかけて冷ました紅茶を一口含んだ時、師が口を開いた。
「あなたを弟子にしたのは、偶然じゃなかったの」
「え…?」
 はじめて聞くその話に、ユリはカップを持ったまま動きを止めて次の言葉を待つ。
「占いをしていたら、あの街の方角に私にとっての吉兆が待っていると出たから、私はあの街に行ったの。普通占い師は自分のことは占えないのにおかしいなと思ったのだけれどね」
 でも、自分の占いには自信があったから確かめずにはいられなかったの、と師は苦笑した。
「長年一人でなんでもやってきて、他人を生活に入れたくなかった私が弟子を取る気になったなんて……それ自体自分でも驚きだったのだけれど、今ならなんとなくわかるの」
「…?」
 ユリは師の言葉の意味がいまいちわからず、カップを置いて首をかしげた。
「私は本当は寂しかったんだわ。でもあなたと会ったことで、驚くほど心穏やかになった。子供を産めない私が、子供を育てることができて、とても満たされたの……」
 師は言葉を切り、ユリの瞳をじっと見詰めてそれを口にした。

「だから、ここを出て行きなさい」

「……え?」
 ユリは師の言葉の意味が理解できなかった。何故、今の話でその言葉にたどり着くのかがさっぱりわからない。
「前にも話したと思うけれども、あなたの両親はおそらく船旅の最中に海賊に襲われて亡くなった。赤ん坊だったあなたはその海賊に拾われ、孤児院で育てられた…多分その、太股の聖痕ゆえに」
 自分の左太股の痣がかつて聖戦士と呼ばれた人たちの末裔の証で、ユリの祖先は「槍騎士ノヴァ」だということはすでに聞かされていた。
「だから、真の故郷のレンスターでもいい、別の国でもいいから、とにかくここを出なさい。馬は…そうね、私のフランシスをあげるから…」
「ちょっ…待ってくださいっ!」
 一方的に喋りつづける師の言葉を遮るように、ユリは机を叩いた。
「どうしてっ…どうして私、出て行かなくちゃならないんですかっ…。私、何か、お師様の、気に障ることを…しました…かっ?」
 涙に詰まりながら叫んだ拍子にいつも髪に巻いていた、あの少年のバンダナが解けた。師は風に乗って飛びかけたそれを片手で掴み、儚げに笑う.
「ばかね…。どこの世界に大切な子供を追い出して平気な親がいるというの……」
 いつも見てきた気丈な師はそこにはいなかった。そこにいたのは身を切られるほどの悲しみに襲われた「母親」で。ユリは師のその表情に、はっと息を飲んだ。
「私だって、あなたが恋をしてお嫁に行く日までずっと一緒にいたかったわ…でも、好きでもない、親子ほど年の離れたスケベオヤジの元に行かせなくちゃならないくらいなら、どこか遠くで生きていてほしいのよ」
 師匠はユリの髪にバンダナを丁寧に結びなおすと、涙をためた瞳を向けた。
 要約すると、ミレトスを仕切る貴族のオヤジが、ユリが師の付き添いで占いのため館へ同行したときに彼女を見初めたのだという。今まで何度も求婚の申し入れはあったが、すべて師匠が突っぱねていたという。だが痺れを切らしたその貴族が様々な方面に圧力をかけ、その最後通告に本日訪れたらしい。確かにさっきの客は案内するユリをまるで値踏みでもするように見ていた気がした。
「他の街に居を移して新しく商売を始める…という選択肢もあるけれど、私を頼ってくれる市民達を捨ててはいけないの」
 師匠は貴族だけでなく、一般市民も安価で占ったり、薬を提供したりしているため、多くの市民に支持されている。その市民達を、裏切りたくはないというのが師の心情なのだ。
「…私、お師様のためならば、その人のところへ嫁いでも……」
「馬鹿言うんじゃないの!」
 辛そうな師を見ていられなくて思わず呟いたユリの言葉は頬を打つ音にかき消された。師匠がユリの頬を軽くはたいたのだ。
「そんなことをして私が本当に喜ぶと思っているの? あなたを犠牲にして平気でいられるほど、私は冷血漢じゃないの」
 そして、彼女はふっとやさしくユリを抱きしめる。
「あなたはこれから恋をして…いえ、恋をしなくてもいいけれど、この人のために生きたい、必要とされたいひとを見つけるの。『バンダナの君』に言われたような」
「お師様……」
 きゅ、とユリは師の肩を抱いた。これも自分が成長した証なのだろう、いつのまにかあんなの大きかった師の肩は自分が抱きしめられるほど小さくなっていた。
「ここから逃がすことしかして上げられなくて、ごめんなさいね……」
 ユリの首筋に何か冷たいものが落ちた。それが師の涙だと理解するのにそう時間はかからなかった。

 彼女が師の涙を見たのは、後にも先にもそれ一回きりだった。


 街を出るのは夜明け前の闇にまぎれてということに決めた。
 午後の時間を使ってユリは旅支度を整える。師は不自然な様子にならないように午後は通常営業だ。
 荷物といっても大きなものは持っていけない。元々たいした荷物もないから、数枚の着替えや護身用にと数年前から師の客の兵士に習っている鋼の剣、あまり扱いになれていないライブの杖、簡単な保存食などを用意すればすべて済んでしまった。
 名目上は師の使いで他国へ出るということになっている。不自然にならない程度の偽の旅程を設定し、予定を過ぎても戻ってこないから何かあったのでは、と師は心配を装う。もちろんユリは何かあってもなくても戻ってはこないのだから、それは嘘なのだが。こんな方便でいつまで貴族をだませるのかはわからないが、今は早くスケベオヤジが諦めてくれるのを待つばかりだ。
 ユリはイザークへ向かってみるつもりだった。メルゲン・ダーナを経由してもヴェルトマー・フィノーラを経由しても、どちらにしろ砂漠を越えなくてはならないので、一人旅が初めての彼女には過酷な旅になるのは間違いなかった。でも、もう一度行ってみたいのだ。あの少年と出会ったあの場所に。
 子供の頃から比べればだいぶましになったとはいえまだ身体の丈夫でないユリのために、師は薬草を調合して持たせてくれた。本当は彼女を一人で旅させるのは心配で仕方がないのだろう。ミレトス国内や隣国のシアルフィ程度までならば何度かお使いで行かせたものの、今度の旅はその比ではない。
「だいじょーぶ、何とかなります。私にはバンダナの君がついてるし、それにお師様の薬草とフランシスも一緒ですから」
 お師様の愛馬フランシスにはかつて何度もお使いの際に乗ったが、気難しくて扱いやすいとはいえない馬だ。何が気に入らないのか、よく振り落とされる。
「…フランシス、ユリをお願いね」
 師はフランシスの鼻先を優しく撫でる。フランシスは別れを惜しむように悲しげな声を上げて、顔を師に擦り付けた.
「じゃあ、いってきます。いつか、必ず戻ってきますからっ」
 できるだけ明るく告げ、馬を走らせる。
「いってらっしゃい……さよならは言わないわね」
 背後から師の声が聞こえたが、振り返らない。振り返ってしまえば泣いてしまう、出て行けなくなってしまうのはわかっていたから。
 夜明け前の一面の闇は怖い。
 だが胎児が闇に満ちた産道を自力で通り抜けねばならないのと同じように、ユリもこの闇を恐れてはいられない。
 きゅ、と手綱を強く握り締め、彼女は馬を走らせた。


 † † † † † † † † † † † † † † † † † † † † †


 師が旅の資金を持たせてくれたのだが、旅をすれば減っていく一方で。ユリが『そろそろ稼がないとまずいかも』と思う頃には宿に泊まれるだけの資金はなかった。
 旅人が資金を稼ぐ方法としては『闘技場』や『依頼』が上げられる。前者は街併設の施設で、武力を競い合って相手を負かした方か賞金を貰えるというシステムだ。もちろん自分の実力に比べて強い敵のほうが賞金は高い。
 だがユリはある程度剣技は学んでいたが、闘技の様子を見てとてもじゃないが勝てそうにないかも、と思い挑戦することを断念していたのだ。
 後者は街で困っている人たちを手助けするというもので、常時ある仕事ではない。ふらりと立ち寄った街で依頼されるなんてことは相当運が良くないと。
 結果、今のありさまである。
(う〜……やっぱりいいかげん、お金稼がないと……)
 女であることを利用してお金を稼ぐ方法を知らないでもなかったが、さすがにそれはあまりしたいとは思わなかった。それをしたら、あのまま師の元にいてスケベオヤジに嫁ぐのと変わりないのだ。師の思いを無駄にすることになるような気がする。
「ああ、だいじょーぶ、フランシスのご飯はあるからね〜」
 最後の銅貨を馬の餌に変え、与える。ここまで数回振り落とされたりもしたが、これから長く付き合うのだ、少しでも慣れてもらわないと。
「おなかすいたぁ……」
 今いる街には闘技場はないようなので、がんばってみようと決意しても実行に移せなかった。ユリは仕方なく次の街へ向かおうと、フランシスを走らせる。
 幸い季節は夏で、昼の日差しは厳しいが野宿する分には冬よりは格段に楽なので助かった。
しかし丈夫とはいえない上に一人旅がはじめての彼女には、夏の強い日差しだけではなくすべてが堪える。師の持たせてくれた滋養の薬はとっくに飲みきってしまった。痛み止めなどの薬は残っているが飲用ではない。
なんとか今日も日が落ちて夜を迎えられたが、三日間の絶食は彼女の意識を曖昧なものにさせる。
(もう…だめかも……)
 頭がぼーっとし、身体を起こしていられなくなる。ユリはとうとう意識を手放し、フランシスの背に突っ伏す形となった。
 慌てたのはフランシスで、大切な飼い主に「お願いね」と念を押されたことを思い出したのか、彼女を起こそうと嘶いてみたり身体を揺らしてみたり。だが、一向に背に乗る人物は動く気配がない。
 辺りはすでに闇に包まれており、昼間ならば行き交う旅人たちもいない。
 そんな中、闇の中に天の助けとばかり明かりを見つけ、フランシスは走った。


 何か暖かいものが唇に押し付けられた気がした。
 意識が朦朧としていたのでそれも幻かもしれない。喉を潤す甘い水分により心地よく再び眠りに引き込まれたから。

「……あれ、おかしいな……確かフランシスに乗って……」
 ふ、と目を開けて初めて自分が気を失っていたことに気がついた。それまでは闇の中フランシスの背に乗っていたはずなのに、今は固い床に寝かされている。そして辺りの闇は明かりで切り取られていた。
「フランシスってのは君の馬か? あそこにつないでるよ」
「あ、うん……って、途中で頭がくらくらしてから覚えてない……」
 誰かが自分の独り言に答えを返してくれたが、一人旅なのに返事があることが異常だと気がつく余裕さえ、今の彼女にはない―――まだ半ば寝ぼけているのだ。
「だろうな……馬に突っ伏して気絶してたからな、そりゃ覚えてないだろう。そのままじゃどうなるか分からないから、申し訳ないが休ませるために、馬から下ろさせてもらった。勝手に身体さわってすまね」
 声の主はユリと同い年くらいの青年で、長い黒髪と黒い瞳が焚き火の炎に照らされてほのかに赤みを帯びている。
 いきなり青年に頭を下げられ、彼女はあわてて起き上がって手を振り、同じように頭を下げてみる。
(この人が、助けてくれたみたい……)
 漸くそう理解することができた。
「そ、そんな、謝らないで……お礼を言わなきゃならないのにそんな風に謝られたらどうしたらいいのかわからなくなっちゃう。身体に触れずに介抱できる方法があるのなら、ぜひ私も知りたいくらいだし……。えっと、だから介抱するのに触れてしまうのは当然だって言いたいわけで…べつに下心があったとかそういうことを疑ってはいないからっ…だから、気にしないで、ね」
 なんだか余計なことを口走ってしまった気もしたが、感謝こそすれ彼を責める理由がないのは事実だ。だが、そんなユリの想像を上回る言葉が彼の口からは出てきた。
「いや……もう一つ、謝らなきゃならね、苦しがってるから、気付けと思って果実水を口うつしで飲ませたこともな」
「くっ……」
 思考が止まる。
 口移しくちうつしクチウツシ……つまり、先ほど夢だと思った暖かい感触は、この目の前の青年のもので。
 意図せずに顔が紅潮するのが自分でもわかる。青年にも見えてしまっただろうか。焚き火の照り返しだと思ってはくれないだろうか。
「……言わなきゃ分からないのに、どうして?」
 何も言われなければ彼女とて「あの暖かいものは夢だった」で終わってしまえたのに。
「隠すのも悪いと思ってな、別に他意はないけど、気を失っていて、何も知らないことを知らないままにするのは、俺的にちょっとな」
「……そっか…。紳士的なのね。助けてくれてありがと、本当に」
 驚きはしたものの、嫌だとは思わなかった。正直に真実を告げてくれたことも、好感が持てる。ユリはやわらかく笑い、再び心から礼を告げた……そのとき。

 ぐうぅぅぅっ。

 盛大な腹の音が、焚き火のはぜる音を掻き消して響いた。
「うぁっ…」
 恥ずかしい、これは女としてはかなり恥ずかしいのではないだろうか。けれども三日前から絶食しているのだから仕方がないといえば仕方がない。
「まあ、飯でも食いながらゆっくりしようか。ちょっと待ってな」
 さらに真っ赤になって目の前の青年を見やると、彼は笑いをこらえつつ何かを取り出している。どうやら何か食べさせてくれるようだ。
 ユリは調理に専念する青年の様子を、焚き火の向こう側から観察してみる。
 闇色の黒い髪は辺りの闇に溶け込んでしまいそうなほど滑らかで、同じ色の双眸は優しい雰囲気をかもし出している。背もかなり高く、頼りがいのありそうな体つきだ。脇に大事そうに置いている剣とその容貌から、イザークの剣士だろうとあたりをつけるのはそう難しくない。
(ああ……そっか)
 ユリは青年の容貌を観察して初めて、自分自身の心に気がついた。初対面の男性にまったく違和感も感じず、身構えないでいられるのはやはり目の前の男性の容貌や雰囲気の及ぼす影響が大きいのだろう。彼もあの『バンダナの君』と同じ黒髪黒瞳だ。
「もう少し材料があれば良かったんだが、まあ、腹には優しくしたつもりだから」
「ありがとう……実は三日前から何も食べてなかったの」
 突然青年が自分の方を見たので彼女は驚いたが、どうやら料理ができたようだ。自分が観察していたことを気取られたわけではないとわかってほっと胸を撫で下ろしつつ、受け取ってふうふうと冷ます。
 その料理はありあわせの簡素なものだったが、それまでたべた何よりもおいしく思えた。
(おいしい〜……)
 感動して、涙が浮かびそうになるのをぐっとこらえる。
「三日前? そりゃひどいな、またどうして?」
「実は路銀がなくなったの、一番近い闘技場までもう少しかかるから……下手してたらそのまま……かもね」
 これは、助かったからいえる軽口だ。
「そりゃまたきついな〜しかし、路銀がなくなるほど旅してるってのもすごいが、なにかわけありだな」
「ん、ま〜ね。いろいろとあってね」
 別に隠すほどのことでもないので、彼女は自分の生い立ちを語り始めた。一人旅を続けていたので久々に話し相手ができたのが嬉しいということもある。フランシス相手では一方的に話し掛けるだけなのだ。
 彼女の生い立ちから以降の話は過酷なものばかりだ。だが今の彼女はそれを明るく、他人事のように語ることができる。それはすべて、あの時の『バンダナの君』のおかげかもしれない。
「十一か十二の頃だったかな、バンダナくれて、『前向きに生きなきゃ損』みたいなこと言ってくれた黒髪の男の子がいたんだ〜その場で別れちゃったけど」
 話がその『バンダナの君』のところまで辿り着くと、ユリは言葉を切った。そしてある程度冷めたスープをすすりながら青年の反応を見る。
「私を拾ってくれたお師様のお使いがあるんだけど、本当の目的はその男の子を捜すことかな〜」
 本当はお使いなどただの口実で、とは言えない。これが彼以外の人が相手だったら、真の目的を前面に出してしまうかもしれないのだが。
「いいのか、お使いの方は?」
「ん、別に、あわてる必要もないし」
 元々ないお使いに急ぐもへったくれもない。
「私と同い年くらいだから、もしかしたらもう結婚して子供までいるかもしれない、そうでなくても恋人くらいはいるかもしれない。でも、それでも一度会いたいの。今の私を見てもらって、『あなたのおかげでここまで生きてこれました』ってお礼を言いたいの」
 ぱちぱちと燃え続ける焚き火に視線を移し、ぽつりとまた語り始める。
「もし、迷惑そうだったら――ほら、もう結婚していたり恋人がいたりして変な誤解を招くのがいやそうだったときとか――そのときは、このバンダナも返そうと思うんだ。今まで私を支えてくれてありがとう、って」
 ユリは髪に結んだバンダナを軽く触りつつ、顔を上げて青年を見つめた。焚き火に照らし出された青年の表情は、なんだか複雑なものに変化している。
 しばらくその顔を眺めてにこっと笑ってみたりもしたが、青年は何か考え込んでいるのか焚き火を見つめたままだった。
(……どういう意味なのかな、その沈黙は)
 などと思ったものの聞くわけにもいかず、ユリは残りのスープを掻きこんだ。そしてこの話はここまで、とでもいうように大きく息を吐く。
「は〜〜〜やっと満たされた気分、ありがと〜本当に」
「いやいや、お粗末様で」
「でもさ、こんなにお世話になってるのに、お返しできない……」
「あ〜あ〜気にしないでいいさ」
 青年は空になった食器を受け取りながら、手を振って固辞する。
「ううん! そんなことない!! お礼しないと気が済まない、そうだ、身体で……」
「あのな〜いくらお礼したい気持ちがあるからといっても、言葉を選びなさい!」
 やっといいお礼方法を思いついた、と思って口にしたら、青年は真っ赤になって怒ってきた。先ごろ読んだ書物に、男性は女性が身体を差し出すと喜んで飛びつくみたいなことが書いてあったのだが、あれは間違いなのだろうか。
(でも、私だって誰にでもこういうこと言うわけではないんだけどなー)
 ユリとて、一応相手は選んでいる。だれかれ構わずというわけではないのだ。
(それとも、私って魅力ないのかな〜……あ、身体中に子供の頃の虐待の痣があるってさっき話したからかな…)
「え〜でも〜今路銀ないし〜」
 心中の言葉は口に出さず、やはり御礼はしなくては気がすまないのでその会話を続けようとしてみた。御礼をしたいというのもあるが、何より「離れたくない」という気持ちが強かったのかもしれない。
「とか言われてもなぁ……そうだ、そのバンダナの君を探すの、まだまだ、かかりそうだよねぇ」
「そうねぇ、それだけしか情報ないし」
 ちら、と青年を見て反応をうかがう。
「……ここに、料理も出来る旅の道連れがいますが、いかがです?」
「え? いいの?」
 どうにかしてもう少し一緒にいたいと思っていた彼女の耳に、朗報が飛び込んできた。さすがに向こうから同行を申し出てくるとは思っていなかったのだ。
「ついてきた方がお礼もしやすかろ、いつかでいいや、俺は武者修行であてがないから逆に丁度いいしね」
「……本当にいいの?」
「逆に俺からお願いしたいな」
「うん、いいよ! ありがと〜」
 思わぬ言葉にユリはまだ思うように動かない身体を押して彼に抱きつこうとしたが、やはり思うようにに身体を操れずに断念。
「あ、そう言えば、重要なこと聞くの忘れてた、名前、なんて言うんだっけ?」
 そうそう、バンダナの君のときのように「また」名前を聞き忘れてはどうしようもない。今度は共に旅する仲間なのだから、名前を知らねば不便極まりない。
「あ、ごめんなさい、言うの忘れてた〜。ユリ、っていうの」
「いい名前だな。俺の名はセリオス、よろしくな」
 自己紹介と共に差し出された彼の手を、迷わずに取る。
 ふっと、優しい風が懐かしい馨りを運んだ。

 それは、あの時のバンダナの馨りに似ていた。

                







                                                               了