FE TRPG Story
Yuri side
2005.10執筆
by Sayo Suzumi
水、水、水―――彼女の一番古い記憶は、一面の水。
その水はとても塩辛く、飲み込むと喉を激しく刺激する。静かな母親の胎内の羊水などとは程遠く、激しく波立つもので―――。後に知ったことだが、私の育ったオーガヒルの孤児院は表向きこそ孤児院であるが、裏では海賊家業を続けている団体だ。孤児として集められた子供達は、海賊になるために育てられる。
オーガヒルはアグストリアのマディノ領の管轄となっていたが、城主をめぐるいざこざでマディノは混乱していたため、このような孤児院を取り締まるところまで手は伸びないのが現実だった。
この孤児院では歩けるようになるとまず海に投げ込まれる。そして泳いで戻って来れれば良し、泳げずに意識を手放してしまった者は―――かろうじて助けられるものの、その日の夕食は抜きという罰が与えられた。
私は物心ついたときから孤児院を出る日まで一度も泳げたことはなく、夕食時は固い床の上に襤褸布を敷いただけの寝所で横たわりながら涙していた。そんな訓練が続くうちにたまった水が無性に怖くてたまらなくなり、泣き叫ぶようになった私は文字通り海に投げ込まれては意識を失うを繰り返していった。
号令をかけられ、番号を唱えるときも大きな声が出せず、殴られることも多かった。4歳の子供には怒られる理由がわからないことも多かったが、なんとなく自分が悪いのだ、人から疎まれているのだということは理解できた。
泣くたびに頬を伝って口に入る涙は塩辛かった。
――――――海の水の飲み過ぎで、涙までしょっぱくなってしまったのだ、と思った。
私にとって水は、どうにかして命の灯火を消し去ろうかと触手を延ばしてくる魔物以外の何物でもなかった。
孤児院暮らしでいいことなど一つもなかったように思える。だから私を引き取りに来たという夫婦が現れたとき、これでこんな生活から抜け出せるのかもしれない、と思った―――この生活以上のものなんて知らなかったのだが。
私の本当の両親はどこかの貴族で、孤児院に私を預けて――といえば聞こえがいいが実際は捨てたのと同じだ――いったという。
院の経営者達は私の両親がもう戻ってこないと確信があるから私を別の夫婦に売るのだろう―――両親はもう死んでいるのかもしれない。親というものがどういうものかはわからなかったが、死はいつも私の身近にあったので、そちらはなんとなくわかった気がしていた.孤児院での思い出などひとつもない。毎日生きるので精一杯だった。
ただ良く覚えているのはひとつだけ――喉を焼くほどの塩辛い海水の味。
私を引き取った夫婦は、自分達を「パパ」「ママ」などという親の呼称では呼ばせなかった。「どうせすぐに売るんだから」といい、名前さえ教えてくれなかった。
だが、私はいつまでたっても売られることはなかった。買い手が私の太股の痣を見て文句をつけたからだ。痣があることが悪いのではなく、痣の種類が気に食わなかったのだという。
幼い私には痣の意味も種類も、ましてや色々な種類があることすらわからなかったが、ただどこにも私の居場所はないのだということだけは鮮明に感じられた。私を売って大金を手にするはずだった夫婦はあてが外れ、ことあるごとに私に当たる。男の方は酒を飲み、私や女に当たる。女の方はそのストレスからか私を必要以上に罵り、叩いた。ともすれば二人そろってどこかへと消えて数日戻ってこないこともある。
後でわかったことなのだが、世の中には聖戦士の血を引く者がいて、その者には「聖痕」と呼ばれる痣が浮き出るらしい。そしてその血を引く子供達ばかりを高く買い取り、集める貴族や商人もいるという。夫婦は聖痕のある子供を孤児院からただ同然で引き取り、何百倍もの金額で貴族たちに売る仕事をしていたのだ。たまに二人で出かけて数日帰ってこなかったのも、この「仕事」だったようだ。
大金が手に入った後の夫婦はひどく機嫌が良く、殴られずに済んで私はほっとするのだった。
いつかは買い手がつくだろうということで私は殺されたり捨てられたりすることはなかったが(これでも元手はかかっているのだし)、扱いは孤児院にいた頃と何ら変りはないように思えた。思ったことを上手く口で表現することがあまり得意ではなく、表情すら乏しい私は夫婦の癇に障ることが多かったようだ。私は私なりに夫婦のために、夫婦に怒られぬように努力していた。だが私のすることすべてが逆効果で、余計に自分の首を締める結果になるのだ。
幼少期から酷い生活を強いられたせいか私の身体は丈夫とはいえず、たびたび熱を出した。だが医者に診せられることもなければもちろん、看病などしてもらえるはずもなかった。ただただ怒られないように、じっと部屋の隅で楽になるのを待つばかりだ。
折檻を受けているときには意識を手放してしまえば楽になれるとわかってはいたものの、なかなかできなかった。しかし倒れてしまえば逆に後でしかられるとわかっているこういうときに限って、私の意識は身体から抜け出ていくのだ。辛い、苦しい、悲しい―――この世にこれ以上の感情があることなど、知らない。
神に祈ることすら知らなかったのだ。祈ることなど、誰も教えてくれなかったのだから。
孤児院を出た後も、死は私の一番身近なものだった。
役立たず、邪魔者、いらない―――そんな言葉をかけられ続けるうちに私は目立たぬよう、誰の邪魔にもならぬように生きようとしはじめた。
その日一日を耐えるのが精一杯で、明日のことなど―――ましてや未来のことなど考えられない。
救いの光など、一向に見えない生活が続いたの。
† † † † † † † † † † † † † † † † † † † † †
数年後、ユリはもうすぐ十二歳になろうとしていた。
ここまで成長したからなのか、とうとう買い手がつくことになり、彼女はイザークのリボー近くへと連れられていった。
夫婦は少しでも高く買い取ってもらえるように、と彼女にそれまでとは打って変わった上等な食事を与え、髪と服を調えた。身体中に残る折檻による痣や傷だけは、消すことはできなかったが――。
数週間の旅程を経て彼女が目的の街に入ったのは夜だった。夫婦は前祝だ、と酒場へ繰り出したため、彼女は一人宿屋のベッドに寝転がっていた。上等な宿のベッドは今までにない感触で、彼女を驚かせた。
(貴族は毎日こんなふわふわの上に寝ているの…? 背中が痒くなりそう)
心の中でそう呟きつつも、布団のやわらかい感触が心地いいのは事実だ。痛みや悲しみの果てにではなく、初めて気持ちよくて眠くなりそうだった。気がつくと、彼女は眠りに落ちていた。
「死体だー! 通り魔か!?」
窓の外に響くそんな物騒な声に目を覚ましたユリは、部屋を見回した。
(あー…ここはイザーク……?)
そしてふと、いつもならば夜明け前に酒場から戻っているはずの夫婦の姿がないことに気がついた。
(…酒場で眠ってしまったとか?)
その宿には酒場が併設されていなかったので、夫婦は別の酒場へといっていた(もしかしたら馴染みの酒場でもあるのかもしれない)。
ユリは着替えて階下へ向かうと、厨房にいた女将に尋ねた。
「…あの…部屋に誰もいなかったのですが…まだ戻っていませんか?」
『父』『母』という呼称が使えないため、歯切れの悪い言葉となってしまう。だが普段から色々な人間を見ている女将は彼女が喋ることが苦手なタイプだと理解してくれたようで、朝食の準備をする手を止めて振り返ってくれた。
「ああ、お嬢ちゃんか。お父さんとお母さんはまだ戻っていないよ。子供が起きるまでに戻ってこないなんて、ちょっといただけないねぇ。なに、子供を置いて飲みに行くのを悪いといっているわけじゃないよ。親だって息抜きは必要さ」
「…はぁ」
やはり自分達は親子に見えるのだろうか、女将はユリを夫婦の子供だと信じて疑わないようだ。
「外じゃ通り魔の仕業らしい死体が見つかったというじゃないか。物騒だしねぇ…」
「通り魔…」
喋るだけ喋って料理に専念し始めた女将の言葉を反芻する。なんだか胸騒ぎだかただの好奇心だかはわからない感情に突き動かされ、彼女は宿屋を走り出た。
その現場は土地鑑のないユリでもすぐに見つけることができた。人の走っていく方向についていったら、人だかりができていたのだ。
「こらこら、お嬢ちゃんの見るものじゃないよ」
そう止められながらも人ごみを掻き分けて中へと入る。
「こりゃあ…素人の仕業じゃないな。玄人の業だよ。急所を一突きだ」―――その血の海には、見覚えのある二人が横たわっていた。
「ひっ…」
ユリはこみ上げてくる何かを必死でこらえながら、再び人垣を掻き分ける。
わけがわからなかった。だが、走る足は止まってはくれない。元々あまり走ることになれていない足が悲鳴をあげても、止まらなかった。
「きゃあっ!」
漸く止まったのは、足がもつれて転んだからだった。
「ふぅ…あっ…ぐっ……」
身体が酸素を欲している。だが心臓が痛くてなかなか酸素は入ってこない。
「うっ…ひっ…く……」
なんとか身体に酸素が行き渡った頃には、何故か涙が出てきていた。
殺されて自業自得だ、とかこれで自由になれる、とかそんな気持ちは一瞬たりとも湧き上がることはなかった。ユリの心にあったのは(―――私、本当に独りぼっちになっちゃったんだ)
孤独による寂寥で。
あんな人たちでもいなくなって、一人にされて寂しいと感じて。
命令に従うことしか許されなかった彼女には、あの夫婦だけが世界のすべてで。
雛の頃から鳥篭に閉じ込められた小鳥が飛び方を知らぬように、彼女はこれからどうやって生きてゆけばいいかの見当すらつかなくて。
「うー…ひっく…うっく……」
それが夫婦の死への悲しみなのか、これからの自分を思っての涙なのか、開放されたことへの嬉しさの涙なのかはわからない。しかし嗚咽は収まらない。
ユリは手近な壁に寄りかかって座り、泣き続けた。
「どうしたんだ?」
どのくらい泣いていたのだろう。気がつくと目の前に誰かが立っていた。
泣きぬれた顔を上げると、同い年くらいの黒髪の少年がにっこり笑っていユリを見下ろしてる。
「…っく……あっ……」
同い年位の子供と話したことなど孤児院を出てからはなかったので、思わず身構えてしまう。
「あ、ごめん。怖がらせちまったか?」
少年はそういうと彼女の前にしゃがみこみ、目線を合わせる。その黒い瞳はすべてを安心させるような、深い色をしていた。
「なぁ、何で泣いてたんだ?」
「……独りぼっちになっちゃったから」
「迷子か?」
首をかしげる少年に、ユリは紺に近い蒼色の髪を揺らして頭を振る。
「お父さんとお母さんは?」
「………昔からいないの…」
上手く気持ちを言葉にすることのできない彼女に、少年は根気強く話し掛け、上手に事情を聞き出していった。
「本当に一人ぼっちなんだな….でも、誰にも必要とされないなんてことはないと思うよ」
「…でも、みんな邪魔だって…いらないって…役立たずだっていって叩くから……」
ユリの瞳からは、少年と話すうちに止まっていた涙が再びあふれる。
「それは、周りにいた人が良くなかったんだよ」
(周りにいた人が…?)
それは、彼女にとっては思いもかけなかった言葉で。
「誰かに必要とされていないと思う前に、必要としたい、されたい人を見つけたらいいのさ。自分から前に出ないとな」
自分で何かを選択する、一歩進みだすなんて彼女には許されていなかったことで。
「でも……そんな人もいないし……見つけるったって……どうすればいいの?」
彼女には、普通の人間が誰しも行ってきた『選択』の経験がなくて。『自由』を手にしたこともなくて。
「言葉じゃよー説明できないけど……とりあえず、動いてみるこった。『千里の道も一歩から』っていうだろ?」
少年は明るい笑顔を浮かべ、彼女の頭をぽむぽむと優しく叩いた。ユリは、少年の口にした変った言葉を反芻する。
「なにそれ? おまじない?」
「ん〜ちと違うけど……どこかに行くときは足を前に進ませないとそこまでいけないだろ?」
「うん」
その説明ならば、ユリにも理解できる。彼女は涙がこぼれずに止まっていることにも気がつかず、少年の話に引き込まれていった。
「それと同じだよ、何でもいいから、前に踏み出してみな」
少年は彼女の涙が止まったのを確認すると、がさごそとポケットを探り、布を取り出した。
「とりあえず、それで涙拭いて、きついなと思った時はそれ見て、俺の言った言葉思い出して、な」
少年はおもむろに彼女の瞳に溜まったままだった涙をふき取ると、その布を彼女の手に握らせる。
「え、これ……あなたの……」
「いいよ、同じのあるから、もっときな」
でも、と戸惑いを口にしようとしたそのとき、遠くで少年の名らしきものを叫ぶ大人の声がした。少年は声の主を振り返り、慌てて立ち上がる。
「あ、親父が呼んでる、んじゃまた会おうな!」
「あ、待って……!」
もう少し話をしていたかった。
もう少し一緒にいてほしかった。
ひとりに、なりたくなかった。
しかし少年は一度振り返って手を振った後、小走りに彼女の前から遠ざかってしまった。
「………」
ユリは握らされた布を広げてみる。それは浅葱色と白で不思議な模様が描かれているバンダナだった。
「……へんなの…」
彼の言葉は「これからどうやって生きていけばいいのか」という彼女の根本的な不安と疑問を解消してはいない。だが、彼女の中の「何か」に刺激を与えたのは事実だった。
(………)
バンダナを元通りにたたみ、顔に当てる。
(……私はひとりじゃない……ひとりじゃない…)
自分に言い聞かせるように、心の中で呟く。
そのバンダナからは洗剤の匂いに混じって、あの少年のものだと思える心地よい馨りがした。
少年と別れた後、ユリは一人の女性に声をかけられた。その女性は占い師で、先ほどの少年とユリのやり取りを聞くともなしに聞いてしまったという。
年齢不詳のその女性は、自分の身の回りの世話をしてくれる弟子を探しているのだけれど、とあくまでもユリに選択の余地を残した言葉を優しい笑顔で告げた。
最初はその女性の言葉の意図を汲み取れなかったユリだったが、いつまでも辛抱強く彼女の言葉を待つ女性の瞳を見て、ゆっくりと頷いた。
一歩、前に出てみようと思ったのだ。
その女性の瞳は、さっきの少年と同じ深い闇色をしていたから。
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